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気まぐれ系読書ブログ

読書記録『政策起業家 「普通のあなた」が社会のルールを変える方法』

 

2022.1 ちくま新書

 

久しぶりの更新となってしまった。何を隠そう中途半端な時期に転職していきなり職場の多忙期にぶち当たってしまっていた。それゆえなかなか本を手に取ることができなかったのだが……まあ今はそんな話は関係ない。

病児保育で知られる認定NPO法人フローレンスの代表・駒崎弘樹氏の著作。個人的にここ数年子育て政策に注目しているため、著者のSNSはそれぞれフォローして追いかけていた。

florence.or.jp

 

それゆえ本書の発売を知ったのだが、ほぼ同時期に発表された「(本書を)100冊購入してくれたら著者が無料で講演する」というキャンペーン(※既に終了)には驚かされた。100冊と言っても新書である。これだけの大物を呼べるのではあれば破格の値段と言えるだろう。

さて本題。

本書のタイトルである「政策起業家」とはなにか。本書プロローグにおける評論家・船橋洋一氏の言葉を引用しよう。

「官僚や政治家だけでは解決できない複雑な政策課題に向き合い、公のための課題意識のもと、専門性・現場知・新しい視点を持って課題の政策アジェンダ化に尽力し、その政策の実装に影響力を与える個人のことを『政策起業家』と呼びます」

本書はNPOの経営者として社会のルール変更に幾度となく関わってきた著者が、その問題意識と変革の経緯についてひとつひとつ章立てて語っていく構成となっている。物語調の文章の上に難しい用語には注釈が付いているため、読み進めることへのハードルは非常に低い。そして扱われているテーマがいずれも多くの日本人に身近なものとなっており、必然的に「あのルール(法律)はこの人たちが変えたのか! こういう経緯があったのか!」と驚かされることになる。冒険小説も顔負けのダイナミズムは読み物としてだけ見ても秀逸である。また「普通の人」が社会を変える実話というものは、社会の閉塞感に四苦八苦する人々に大きな勇気を与えてくれる。世のなかを変える方法は選挙の投票に限らないのだ。

 

目次

第1章 小麦粉ヒーローと官僚が教えてくれた、政策は変えられる、ということ

第2章 「おうち」を保育園にできないか?小規模認可保育所を巡る闘い

第3章 「存在しない」ことになっている医療的ケア児たちを、社会で抱きしめよ

第4章 如何に「提言」を変革へと繋げるか

第5章 社会の「意識」を変えろ イクメンプロジェクトと男性育休義務化

第6章 「保育園落ちた 日本死ね!!!」SNSから国会へ声を届かせる方法

第7章 政策ができて終わりじゃない?「こども宅食」の挑戦

第8章 1人の母が社会を変えた 多胎児家庭を救え

筑摩書房HP 本書のページより)

 

第1章「小麦粉ヒーローと官僚が教えてくれた、政策は変えられる、ということ」では若かりし頃の著者が、当時住んでいた区の市民委員として政策のあり方に影響を与えた経験から話が始まる。その後国の社会保障にまつわる有識者会議でのエピソードが挿入され、次章へと進んでいく。

第2章「「おうち」を保育園にできないか?小規模認可保育所を巡る闘い」では、子どもが保育園に落ちて職場復帰できないという社員の声を聞き、待機児童問題解決へ一石を投じていく話である。保育園開設には定員20人以上というルールがあったのだが、その定員問題を撤廃して保育園を新設しやすくするため著者らが動いていく。待機児童問題は一時期非常に問題になったが、解決のためにここまで苦労してくれた人たちがいることに頭が下がるばかりである。

第3章「「存在しない」ことになっている医療的ケア児たちを、社会で抱きしめよ」では痰吸引など医療的ケアが必要な子どもたちの居場所を作る戦いが繰り広げられる。どこの保育園にも預かってもらえない医療的ケア児たちを受け入れる障害児保育園設立までの流れは前章同様波乱万丈。本書には法律を変えるために政治家らと協力する話が多く含まれるのだが、医療的ケア児支援法成立の流れで野田聖子議員が熱弁を振るうシーンには特に胸を打たれた。

第4章「如何に「提言」を変革へと繋げるか」では、児童扶養手当の増額や保育士試験の年2回実施実現への動きを見ていく。児童扶養手当増額の流れではインターネット署名が行われているが、それに対する炎上騒ぎを逆手に取って注目を集める著者の強靭なメンタルに驚かされる。

第5章「社会の「意識」を変えろ イクメンプロジェクトと男性育休義務化」は昨今話題の育児介護休業法改正とも繋がる話である。男性の家事育児参画のために国が展開したイクメンプロジェクト。わかりやすさ重視で採用された「イクメン」という言葉が世間に広がっていくが、それだけでは男性育休は増えていかない。ここであえて「男性育休義務化」というパワーワードを打ち出すことでは、著者らは本気で男性育休取得率上昇に向けて動いていく。2021年度の男性育休取得率は過去最高とはいえ13.97%。これだけの関係者の奮闘も虚しくまだまだ低水準にある。このトピックは現在進行系で進んでいるテーマのため、今後の展開に期待したい。

第6章「「保育園落ちた 日本死ね!!!」SNSから国会へ声を届かせる方法」では2016年に話題をさらい、流行語大賞にまでランクインしたブログ記事を巡るやりとりである。待機児童問題を解決するために、本ブログ記事に対して著者が書いた「アンサーソング(記事)」が的確に現状を捉えていて見事である。

第7章「政策ができて終わりじゃない?「こども宅食」の挑戦」ではこども宅食の実施に触れている。こども食堂を開設して好評を得たものの、「本当に必要な親子には来てもらえない」ことに気づいた著者。待っていては支援に繋がらないため、こちらから打って出ようと「こども宅食」を立ち上げる。「困っている家庭ほど、地域に出ていけない」という支援者のジレンマへの指摘は、身につまされる思いがした。

第8章「1人の母が社会を変えた 多胎児家庭を救え」では、絶対数の少なさから注目を浴びることのなかった多胎児育児の難しさがテーマとなる。都バスで双子ベビーカーを使っての乗車を断られた女性の経験を聞き、ルールを変えるためにひとりの女性が奔走する。著者ではない他の人間が動いて社会を変える話は、本書の副題に見事に適合した章と言える。

 

本当に大きなお世話だと思うのだが、何度か選挙に行かない(私の世代から見た)若者に「なぜ投票に行かないのか?」と聞いたことがある。返ってくる返事はいつも同じである。

「自分ひとり投票しても変わらないから」

確かに一票程度ではいけ好かない政治家ひとり落とせないし、未来を託したいと思える立候補者ひとり檜舞台に上げてやれない。それでも若者の投票率が上がれば少しは政治家たちも我々の世代に向けた政策を打ち出してくれるはずである……。

そう返していた。しかし心のどこかでは私も思っていた。投票所に行くたびに「今回も死に票を投じにきたな」と。門をくぐるたび暗澹たる気持ちが去来するほどわれわれ若い世代の思い描く未来は悲惨なのだ。

しかし本書を読んだことで少しだけ心が軽くなった。「男は外で働き、女は家を守る」という旧套に今どれだけの人が賛同するか。誰も守ろうとしていなくても伝統は引き継がれていく。「子どもを守るのは母親の役目」? 子育ては夫婦がどれだけ力を尽くしてもうまくいかないことばかりだ。それをひとりの女性に押し付けるなんてどう考えても間違っている。そのことに弱音を吐けば「自分で産んだんだから責任を持つのは当たり前だろ!」と空虚な正論が飛んでくる。おたくの子どもは誰が育てたのか? と聞いてみたくなる。しかし個人でどうあがいてもこの腐った世のなかは変わらない。

そんな暗黒の世界に一筋の光が差し込んでいた。子どもと子どもを育てる親を助けるために社会のルールが変わっていたのだ。政治家でもない普通の人たちの「足掻き」によって。どんなに動かし難いクソくらえなルールも、声をあげた人たちの力で少しずつ変わっていっている。

もちろん駒崎氏らの変えてきたルールだけでは子どもとその親世代の生きやすい世界を作るのにまだ不充分だろう。いずれも偉業と呼びたくなるような本書紹介の事例だが、どれもまだ一里塚に過ぎないのだ。

でもまだ諦める必要はないと教えてくれた。ほんの少しのことでいい。社会を変えるための手段はいくらでも残されている。閉塞的で陰鬱な社会のルールを打ち破りたいと思っている人にとって、本書を読むことは絶対に無駄にはならないはずだ。

 

最後に余談。巻末に政策起業家リストが掲載されているのだが、それに合わせてここで紹介したいのが元フローレンスで『パパの家庭進出がニッポンを変えるのだ! ママの社会進出と家族の幸せのために』の著者・前田晃平氏

tsuge-m.hatenablog.com

前田氏も政策起業家を名乗っていたが現在は内閣官僚である。YouTubeチャンネル「ソーシャルレンズラジオ」では本書に関する内容も数多く配信している。こちらもぜひ視聴してほしい。

読書記録『死体は今日も泣いている 日本の「死因」はウソだらけ』

 

2014.12 光文社新書

 

日本で見つかる異状死体の多くが解剖に回されないーー。
現職の法医学者・解剖医である著者が、その職務内容の解説とともに日本の解剖制度の問題点を指摘する。

第1章「検死はこうして行われる」
1−1 法医学者は何を見ているのか
1−2 死体が教えてくれること
1−3 あっさり下された「病死」診断が招いた連続殺人――首都圏連続不審死・婚活詐欺(木嶋佳苗)事件
第2章「死因は誰が決めるのか」
2−1 「検死」と「検視」はどう違う?
2−2 1枚の書類が死因を変える
第3章「あぶなすぎる検視・検死の現状
3−1 「とりあえず心不全にしてしまえ」
――21人の死者を生んだパロマガス湯沸かし器事件
3−2 CTだけでは出血源を判断できず、外傷を見逃す――肝臓がん破裂の「病死」にされた男性
3−3 アザだらけの遺体は、「通常の稽古で亡くなった」もの?――時津風部屋力士暴行死事件
第4章「先進諸国があきれる日本の死因究明制度」
4−1 日本の死因究明システムは“ガラパゴス
4−2「先進諸国はこんなにすごい」
第5章「情報開示と遺族感情をめぐる課題」
5−1 死者の尊厳と遺族の気持ちの問題
5−2 犯罪や冤罪の見逃しの問題
5−3 被災地での身元確認、そして――

(出版社HPの本書のページより ※1−3の「木嶋佳苗」はHPでは「木嶋香苗」。誤字か。 2022/05/28)

第1章「検死はこうして行われる」では実際に遺体の解剖からわかることをひとつひとつ解説している。あらかじめ法医学者の仕事は死体の解剖だけではなく「判明したことを、社会に活かすことにある」と明言しつつ、殺人事件があっさり病死として扱われた実際の事件を取り上げて検死の必要性を説いている。
第2章「死因は誰が決めるのか」では法医(実際には臨床医が多い)が行う「検死」、検察官(実際には警察官が多い)が行う「検視」の違いを解説し、その規則(ルール)の問題点を指摘する。続く第3章「あぶなすぎる検視・検死の現状」では実際に起こってしまった杜撰な検視(が引き起こした)問題を紹介している。
第4章「先進諸国があきれる日本の死因究明制度」では日本と先進諸国の死因究明制度の違いを見ていく。本章の後半は外国の制度事例の紹介となっているが、前半は日本の死因究明制度の問題点をメインに扱っている。法医学者の待遇の悪さ、解剖率の地域格差、まったく根付かなかった監察医制度など、挙げられる問題の根深さがよくわかる内容となっている。
第5章「情報開示と遺族感情をめぐる課題」ではこれまでの章を受けて著者が考える解剖制度の在り方を紹介している。なお本章でも実際に起こった死因究明にまつわる問題を取り上げているが、ここでは「遺族から見た死因究明」など、これまでとは別の視点から見るアプローチが中心となっている。

 

警察に届け出のある死体のうち、その多くが解剖に回されない。*1たびたびニュースで話題に挙がるものの、その本質的な理解は一般になされていない現状がある。本書はそれらの問題を真正面から取り扱っており、実際に社会の注目を集めた事件(「パロマガス湯沸かし器事件」や「木嶋佳苗事件」)を題材に具体的に解説することに成功している。日本の死因究明制度にまつわるなんとも「日本的な」問題点もきれいにまとまっており、その根深さには溜め息が漏れてしまう。

 

科学捜査にまつわる本を読んでいると、あまりの科学の発展に「もう犯罪をおかして捕まらずに逃げ切れる犯人なんてほとんどいなくなるんじゃないか?」と思ったりする。しかし翻って法医学者の本には日本の死因究明制度の遅れがこれでもかというほど積み上げられていおり、暗澹たる気持ちになる。まして解剖率の低い地域に住んでいると冷や汗ものでもある。
科学の進歩は犯罪捜査や死因究明の記述レベルを押し上げ、将来的に「現代を舞台にした推理小説」は書かれなくなるものだと思っていた。しかし本書を読み終えた今では「そんな日は自分が死ぬまで訪れないだろう」が本音である。日本の刑事ドラマの舞台が警視庁や京都府警ばかりなのは解剖率の低い地方ではドラマが作りづらいからなのだろうか(おそらくたまたまだろう)。アメリカのドラマでは法人類学者や法昆虫学者が犯罪解決に協力しているが、日本では遺体の解剖を専門とする医師すら不足している。その上日本の警察がいかに激務かは今更指摘するまでもないだろう。これからの日本の犯罪捜査はどうなっていくのだろう。
なにもフィクションに限った話ではない。家族が保険金殺人に遭ったのにろくに調べられずに病死扱いされてはたまらないし、自分が被害者になったら死んでも死にきれない。この世に幽霊が存在するのだとすれば私だって化けて出るだろう。

 

なお本章刊行に関する著者のインタビュー記事がこちら。

synodos.jp

善意ある解剖医たちの献身に頭が下がるばかりである。代案も出さずに「法医学現場に予算を出せ」と言うことは素人でもできることは承知している。しかし一部とはいえ、人の人生を大きく歪める問題に直結する分野である。もう少し世間に知られて議論されてもいいように思われた。

 

『虫から死亡推定時刻はわかるのか?―法昆虫学の話』
三枝聖著
本書で「アメリカには法昆虫学者すらいる」と書かれていて思い出したのがこちら。昆虫を調べてこんなことがわかるのかと驚いたものだった。最近視聴し出したアメリカの刑事ドラマ「BONES」のジャック・ホッジンズ博士の存在がすんなり入ってきたのも本書を読んでいたおかげ。

*1:本書「はじめに」では警察に届け出のある死者は年間17万人以上。そのうち解剖に回るのは2万人以下とある。データは毎年変わるためここでは具体的な数字を控えたが、関連書籍やオンライン新聞を読むと近年の日本の解剖率はおおむね1割程度と変わっていないようだ。残念ながら本書で著者が用いている統計のほとんどは現在でも有効と言えそうだ。

読書記録『時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2』

 

2018年に発売されたミステリ短編集『アリバイ崩し承ります』の続編。若き時計屋店主・美谷時乃を探偵役としたアリバイ崩し特化型の安楽椅子探偵ものであり、第1作は2019年の本格ミステリ・ベスト10で国内編1位を獲得している。また2020年には浜辺美波主演にて連続ドラマ化。基本的に前作のエピソードを扱っているが、最終話原作「時計屋探偵と多すぎる証人のアリバイ」のみこちらの第2弾収録となっている。

表紙のかわいらしい少女のイラストに「○○ます」という丁寧調のサブタイトル。一見すると恋愛を主軸としたライト文芸シリーズのようだが、中身はゴリゴリの本格ミステリである。前作『アリバイ崩し承ります』は「論理の遊び」とも言われる「安楽椅子探偵もの」の要素を極限まで純化したような作品だった。主役のキャラクター性はほとんど描かれず、犯人当て要素(つまり犯人が誰かを言い当てるパズル性)もほぼ皆無。それでいて扱う事件の大半は殺人事件と本格的であり、短くまとまった文章のなかでひたすらにアリバイ崩しだけを楽しむことができた。しかも主役の時乃も語り手の「僕」も穏やかに描かれ、事件の悲惨さも大きくクローズアップはされないために読みやすさも抜群である。社会派の内容を好む人でなければ間違いなくミステリ初心者におすすめできる作品と言えよう。第2弾となる本作も基本的には前作と同じようなスタンスだが、今回からは複数の犯人が提示されるなど「犯人当て」要素のある作品も複数収録されている。また前作終盤でようやく進展を見せそうになった主役の「僕」と時乃の関係も、ささやかながら描かれるようになった。
なお収録短編5作は以下の通り。

 

・「時計屋探偵と沈める車のアリバイ」
ダム湖に沈められた高級車。捜査一課は殺人の可能性を考慮して捜査を開始する。しかし被害者の死亡推定時刻、最有力容疑者(被疑者)には友人宅で麻雀をしていたという動かしがたいアリバイがあった。
シンプルにまとまっていて手軽に楽しめる。個人的には作中1番好きだったりする。

・「時計屋探偵と多すぎる証人のアリバイ」
ドラマ「アリバイ崩し承ります」の最終回を飾ったエピソード。焼死体(正しくは焼損死体)で発見された議員秘書。その最大の容疑者は500人の参加者を集めた政治資金パーティーを開催していた。
ドラマを先に見てしまったのが失敗と思いきや、意外に忘れていて楽しめた。

・「時計屋探偵と一族のアリバイ」
殺害された資産家。容疑者は被害者の姪・甥の3人。誰かひとりでもアリバイが崩せれば犯人がわかるのだが……。
シリーズを順番に読んでくるとその異色さが際立つ作品と言える。

・「時計屋探偵と二律背反のアリバイ」
第75回日本推理作家協会賞短編部門受賞作。女性を殺害したと思われる容疑者のアリバイが崩せない。しかも容疑者は数時間差で別の場所で発生した殺人事件でも取り調べを受けていた。
すぐにトリックには思い至るのだが、完全な真相までは近づけさせてもらえない。細かな手がかりを繋ぎ合わせて真相を解き明かす時乃の推理は現状シリーズで1番かもしれない。

・「時計屋探偵と夏休みのアリバイ」
時乃の高校時代のエピソード。美術部で起こった破壊事件の真相とは?
時乃の人間関係が描かれるなど雰囲気が大きく違って感じられる。殺人事件ではないが、ただのアリバイ崩しと思うなかれ。


著者は以前密室事件に特化した短編集も書いている。

だが「密室もの」は掘り尽くされた鉱脈と称されるジャンルであり、本作も大きな評価を得ることができなかった。しかし出色の出来とされる「少年と少女の密室」、「密室動機学講義」が展開される「理由ありの密室」、ユニーク過ぎる探偵役の正体など、『アリバイ崩し承ります』に繋がる著者の気概の感じられる挑戦的な作品でもあった。
ただ「アリバイ崩しもの」も「密室もの」とほとんど変わらないレベルのレッドオーシャンである。平成の終わりにここまで面白いアリバイ崩しもの短編集が読めるなど誰が想像しただろう。いや、した人もいたのかもしれないが、私にとっては本シリーズの登場はなかなかの衝撃であった。キャラミス(キャラクターミステリ)全盛の時代に美貌(?)の名探偵がほとんどフューチャーされないのも好印象である。*1
ネットの評判を見る限り本作『時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2』は前作よりも評価が高いようだ。個人的には収録編数の差もあって甲乙をつけがたいのだが、一編一編の出来としてはやや本作優位の印象である。2作連続の本ミスベスト10国内編制覇は難しいだろうが、果たして……。

 

浜辺美波主演のドラマ版。
大ヒットミステリ『屍人荘の殺人』の剣崎比留子に引き続き売れっ子若手俳優浜辺美波が探偵役を務める。ドラマ化に際してオリジナルキャラクターが何人も登場しているが、一番の注目は作中掘り下げられていなかった美谷時乃の描かれ方だろう。第1話冒頭でご機嫌に「コ〜ロケ♪ コ〜ロケ♪」と口ずさむ浜辺美波はなかなかの衝撃であった。もちろん原作とは別物だと理解しているし、ドラマ化する際の変更点として決して間違ってはいないと思われる。しかし映像化の影響力というのはあるもので、本作を読んでいると各短編の冒頭で「僕」が事件を語り出すたびに脳内に浜辺美波の姿とドラマのオープニングテーマが流れた。

*1:もちろんキャラミスがダメというわけではない。

読書記録『日本のジーパン』

 

目次

はじめに
第1章「私が作る「日本のジーパン」」
第2章「日本のジーパンはこうして生まれた」
第3章「私がジーパンづくりに魅せられた理由」
第4章「ものづくりの現場が教えてくれた」
(※出版社HP本書のページより)

日本ジーンズ業界の重鎮である著者が語る日本の「ジーパン」事情とその歴史。なお著者はジーンズをファッションではなく作業着と捉えている。そのためか呼称もデニムやジーンズではなく「ジーパン」と統一している。※よって本エントリでも以下「ジーパン」とする。

 

第1章「私が作る「日本のジーパン」」では著者のジーパン哲学が語られる。ジーパンデザインの基礎的な解説も含まれるが、話の軸は著者が手がけるジーパン専門ブランド「リゾルト」へ続く道である。著者が憧れた「リーバイス」を出発点とし、自身のこだわりを貫いて生み出し→成功を収めた「ドゥニーム」。そしてこれらの経緯を見ながら今手がけている「リゾルト」に込めた思いを語っている。
第2章「日本のジーパンはこうして生まれた」では日本のジーパンの歴史を振り返っている。ジーパンの源流リーバイス501から話が始まり、ジーパンがファッションとして日本に受容されていく経緯を綴る。なおジーパン製造の舞台裏の歴史がそのメインと言える。
第3章「私がジーパンづくりに魅せられた理由」では、著者の学生時代から「ドゥニーム」を生み出すまでのエピソードが語られる。個人的に目を引いたのが著者の学生時代の話である。著者は高校のころ2時間かけて神戸に服を買いに行っていた。そこで服屋の店員のウンチクを聞いているうちにその商品を買ってしまっていた経験があるという。買って帰って自分でも「やっぱりすごいなぁ」と思う。おそらく誰もが一度は経験することではなかろうか。一流のブランドを立ち上げた人でもこうなのかと思うと却って安心しないだろうか。
第4章「ものづくりの現場が教えてくれた」は「ドゥニーム」の失敗と成功、そして「リゾルト」創造のなかでものづくりの現場で教わったことを記している。

 

値段は下げてもクオリティは(可能な限り)下げない。じゃあ何を下げるのか? 行き過ぎた低価格路線が回り回って日本経済を停滞させてきた。今では誰もが知っている溜め息ばかりの物語である。そのなかで安さよりもこだわりを優先するジーパンブランドが成功を収めている。素直に嬉しい話だと思わないだろうか。
子供の頃はジーパンばかり穿いていた私だが、気づけば歳を重ねるにつれてほとんど穿かなくなってしまった。どこの職場に行っても着用NGとなっていることが理由のような気がする。
本書は自身(読者)とジーパンの思い出を喚起する。私の場合は2つだ。ひとつは若い頃に大阪の中心街を歩いていてリーバイスの専門店を発見したこと。入ったはいいもののおしゃれ感満載の店内と店員に気後れし、「まだ自分には早い」と逃げ帰ってしまったこと(地元の服屋なら気兼ねなく買えていたのに不思議だ)。ふたつめはアメリカのドラマ「スーパーナチュラル」の主役ジェンセン・アクレスがジーパンを穿きこなしているのに見とれたこと。「こんな感じにカッコよく穿きこなしたい!」と誓ってはや数年。未だに足元にも及ばない。ただ本書を読んで少しだけチャレンジしたい気持ちが復活しつつある。*1

 

もともと物書きでない人が執筆する文章は本職の人が書くものと比べて散らかっているものである。本書は読み進めれば進めるほど著者の関西弁が入ってきて文体が崩れるが、読むのにストレスがかかるレベルではない。
ページ数は光文社新書としては少なめ。ジーパンそのものと著者の着用写真が含まれていることを思えばさらに短いだろう。分量が少ないことは認めるが、それでも著者の思いは充分に伝わってくる。「ジーパン」や「デニム」の語源など、ジーパンにまつわるトリビアだって見逃せない。
なにより本書はカバーがお見事だった。デニム生地は本の表紙にしてもカッコいい。私もついついつられて買ってしまった(笑)

 

「リゾルト」のInstagramアカウントでは著者の日記や愛用者たちの写真が閲覧できる。

 
 
 
 
 
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*1:そもそもルックスに天と地ほども差があることは言ってはいけない

読書記録『ロンドンならすぐに恋人ができると思っていた』

 

幻冬舎plus連載記事「月が綺麗ですね 綾の倫敦日記」の書籍版。日本人名のペンネームを持つ著者が、日本の会社に勤めていた6年間、MBA在学中の経験、移り住んだロンドンの街での生活を比較しつつ感じたことを記したエッセイ集。

帯文や各種オンライン書店の当該ページを見ているとフェミニズムを専門に扱った書籍に思えてくるが、フェミニズムをメイン(人によるだろうが)にしたエッセイはおよそ3分の1ほど。それ以外はロンドンでの生活で知ったこと・出会ったことがほとんどである。2人1組で行動する「パートナー文化」、イギリスの人々が愛する「ビスケット」、日本では行われていないコロナ禍の「ロックダウンの街並み」。中心に据えられたテーマは多岐にわたっており、本書の趣旨は性別に限らない「多様性」と言っていい。
もちろんフェミニズムも中心的なテーマだが、どちらかと言えばロンドンと東京を中心にした比較文化的視点の文章が目立つ。著者は同世代の女性に読んでもらいたいと書いているが、その国際色豊かな人生経験はもっと多くの人を引き込む可能性を秘めていると思われる。
昨今はユーモラスな筆致で読みやすいエッセイの書き手が多いが、著者もそのひとりだろう。ただ柔らかい文章のなかに「生き馬の目を抜く」世界を生き抜いてきた強さと価値観があり、その独自性は際立って見える。また文学を好む著者ゆえか、ロンドンで出会った人々の使う独特の言い回し・スラング等を多数記していることも見逃せない。

作中で特に関心をもったエッセイを幾つか挙げておこう。

 

・「女らしさ」の問題はどこに行ってもぶつかる
デート中に彼氏から言われた「フェミニズムってよくわからない」という言葉が、著者の心中に「これまでに経験したハラスメント」や「きちんとフェミニズムについて話をすることができなかった後悔」を呼び寄せる話。男性しか登壇していないパネルディスカッションには参加しないという会社のルールを作った部分も興味深かったが、この話で彼氏が「母親は性差別にあっていない」と答える部分があまりに深く心に突き刺さった。著者の「あなたに言ってないないだけなんじゃないの……」の言葉には頷くばかりである。
少し個人的な話をするが、最近某SNSで昔の知人からセクハラメッセージを送られて困っている女性の話を聞いた。あまりにひどい文面だったので私はアカウント乗っ取りを疑ったが、彼女の話を聞く限りそれはなさそうだ。「さすがにこんなこと言うような男性は……」と呟きながら私の脳裏にはぞっとするような言葉が浮かび上がっていた。「女性にこんなことを言う男性の話をいくつも知ってるんじゃないのか?」と。社会人になってから、仲良くなった女性にひどいセクハラ被害に遭った経験を打ち明けられたことが何度あっただろう。怖くて人に話せる内容ではないし、打ち明けるのにどれだけ勇気がいったことか。まして「フェミニズムってよくわからない」的な考えの人にそれを話すわけがない。なぜ話さないことはないことになってしまうのか。著者の怒りに察するものが多過ぎた。一応男性のひとりとして言わせてもらえば男性にだって生きづらい部分はある。私も仕事でセクハラに遭ったことがあるし、ストーカーやDVに関する書籍を読めば女性の加害者に苦しめられる男性被害者の例を見つけることは容易だ。だが性犯罪被害の申告率が低いのは男性も同じ。絶対数が少ないからもはや「ない」ことになってしまっている。こういう話をするとどうしても議論の相対化に作用して「男性も苦しんでいるんだ。女性も我慢しろ」の論調に使われてしまう気がして口に出せないでいる。しかし男性ゆえに苦しんだ経験のある人は、女性を攻撃するのではなくその苦しみを理解できるはずなのではないだろうか。

 

・イギリスが惹かれる「金継ぎ」という日本の美の哲学
日本の伝統的な陶磁器の修理法「金継ぎ」がヨーロッパで人気を博したという話。日本文化を独特の感性とアレンジで受容する他文化に対する著者の考えが興味深い。
著者ではないが私も「日本文化の見られ方」には心が惹かれる。これまた個人的な話で恐縮だが、私はアメリカのドラマが好きでよく見ている。なかでも日本人のキャラクターが登場するエピソードには注目しており、かれらが一様に挨拶として手を合わせることに興味をもっている。日本人が手を合わせるのは宗教的な場面か死者と食事へ向けてだけだ。最近だとカブス鈴木誠也がホームランを打ってホームに帰ってきたときに、スタッフか誰かに手を合わせて挨拶されていたのを見た。神様でもないし、私がされたら恐縮してしまいそうだ。一切裏付けはとっていない感想だが、日本人は思った以上に礼儀正しい民族だと思われているのだろうか。やってる側に悪気はないだろうし、困る話でもない。誰も指摘しないことなのだろう。

 

そして誰もいなくなった
日本では今のところ行われていない「ロックダウン」下のロンドンの風景。続く「ロンドンを止めたコロナ禍」も含め、海外都市在住者から見たコロナ事情はそれだけで貴重な情報である。もし日本でもロックダウンが起こったら……? その想像を掻き立てる。

 

・「典型的なロンドン人」なんていないーー東ロンドンという街
「『典型的なロンドン人』のイメージが湧かない」は著者の友人の言葉。多文化社会・(東)ロンドンの街の雰囲気とその歴史に触れている。これ一編で単著1冊書けるような広がりのあるテーマ。もちろん他のテーマもそうなのだが、著者の描くロンドンの街が1番印象に残るのがこのエッセイだった。

 

どうしても個人のエピソードに広げてしまうが、それだけ開かれたエッセイ集と言うことができるだろう。フェミニズムでもロンドン文化でもビスケットでもいい。そのどれかが読者の琴線に触れて印象に残る作品となっているはずだ。著者と同世代の女性にとっては特にそうかもしれない。いいブログの条件に「その人だけの経験が詰め込まれている」が言われることがあるが、そんなに単純に決めていいのなら本書は(ブログではないが)いい本に決まっている(笑)以上。

読書記録『クワバカ クワガタを愛し過ぎちゃった男たち』

 

プロローグ

第1章「魔性のクワガタ」
第2章「戦うために生まれてきた」
第3章「血の力」
第4章「コーカサスに恋して」
エピローグ
(出版社HP同書のページより)

人生をクワガタのために捧げた人たちを敬意を込めて「クワバカ」と呼び、彼らの生態・人生を訪ね歩く。幻と言われたマルバネクワガタの存在に魅了され、その収集に命を賭けた男たちを題材に日本のクワガタ採集史を瞥見する「大人の課題図書」でもある。

「瞥見」とは書いたが、その溢れる熱さに心は躍る。大人になっても子供の遊びに夢中になる人を世間はバカと呼ぶだろう。でも、その夢中さゆえに犯した過ちが時に愛おしく感じられるものである。

 

本書の半分以上は上記の「マルバネクワガタ」を追うストーリーで占められている。第1章「魔性のクワガタ」がそれで、夢のクワガタを求め続けた男たちのインタビューを重ねながら、日本のクワガタ分類学・採集の歴史を描き出していく。*1南西諸島に棲む幻のクワガタ・マルバネに魅せられたコレクターたちは、恐ろしいハブの犇めく暗闇のジャングルを極限の緊張感をもって探し回っていたという。クワガタ採集は一般人の想像より遙かに過酷で、命の危険を伴っているようだ。またマルバネを追って沖縄に移住した人々の話もたびたび登場し、彼らがいかにクワガタに入れ込んでいるかを知らしめてくる。そしてマルバネやオオクワガタが乱獲に遭って数を減らした(とされる)歴史にも触れているところが注目点だろうか。著者は各種クワガタ取引を可視化したネットオークションの問題点を指摘している。オークションでクワガタが取引されるところを目にすることで乱獲が促進されたり、また「自分の土地のものを勝手に持っていって商売している」と気分を害する人々が現れたことは否定できない。なによりマルバネ捕獲にまつわる規制に対して、それは採集者ではなく行政による自然破壊を主要因だと考える人がいるという指摘も注目に値する。
続く第2章「戦うために生まれてきた」は国産クワガタを捕獲して事実上の外国産クワガタたちの決闘・クワガタバトルに挑戦した著者の体験記で、第3章「血の力」はクワガタブリーダーたちの世界を描いている。どちらもページ数は少ないが、第1章と比べてどこか微笑ましく、楽しく読める内容となっている。
第4章「コーカサスに恋して」は世界一のクワガタ王国インドネシアに遠征した著者が、旅の仲間たちの昆虫人生を聞き取ったものとなっている。厳密にはこの章はクワガタを扱っていないが、昆虫コレクターという視点で見ればとても共通点が多い。

 

第2章・第3章が楽しく読める一方で、第1章と第4章はどこか哀愁を帯びているように思う。第1章ではクワガタ採集の規制が進むことを「夢の終わり」と表現していて、目標を失った男たちの気持ちを慮ると言葉が出てこない。第4章ではがむしゃらに夢を追い続けたことへの後悔の念がクローズアップされているし*2、「自分の夢を叶える」という現代的な価値観の功罪も炙り出しているように思われる。自分の好きなことをしてお金を儲けられる人が世の中にどれだけいるものか。それでも夢を追い続ける人たちの本音とはどのようなものか? 著者の意図とは外れているかもしれないが、本書にはそういう読み方も可能だ。

 

昨年の夏のことだ。暗い夜道を歩いていると樹液の出ている木の前を通りかかった。いつもコクワガタしかいない木なのだが、このときはヒラタクワガタのオスが2匹貼りついていてぎょっとした。子供の頃、多くの少年の例に漏れず私もクワガタに憧れていた。幸いにも自然豊かな環境に生まれ育った私にとって、カブトムシやクワガタはそこまで珍しい生き物ではなかった。採集になど行かなくても、自宅の光に引き寄せられてあちらから勝手にやってきてくれるほどだったのだ。しかしそれはごく一部の種類に過ぎなかった。私が見つけ、育成していたのはいつだってカブトムシとコクワガタだけだったのだ。樹液の出ている木の見つけ方など知らないし、木に蜜を塗っても寄ってくるのは蟻だけだった。
しかし幾つになっても少年の心を捨てられない友人に誘われるうち、ここ数年私もクワガタ観察の魅力に捕らわれるようになった。私は捕まえないし、育てない。しかし子供の頃図鑑の中で見て夢中になったクワガタたちを、実際に目にすることには無上の喜びを感じた。この前年には夢にまで見たノコギリクワガタを何匹も発見。そのいかついフォルムに見とれた。子供の頃に捕まえていたら片時も眼を離せないほどに夢中になっていただろう。
しかし昆虫採集は気味悪がられるのも事実である。夜木々を回っているとちらほら同好の士を見かけることがあったが、彼らが帰った後に木の洞(うろ)が破壊されていたこともある。どう考えてもマナー違反である。いくら静かにしていても夜中に人が歩いていることを近隣住民は良しとしない。なんら迷惑をかけた覚えはなくても、翌日には近くの木々がことごとく伐採されていた経験もある(偶然かもしれないが)。成人男性は出歩いているだけで不審者扱い。これが男性の生きづらさである。

それだけ負のレッテルを貼られる趣味でも、彼らは夢中になってやっている。そこに嫉妬の気持ちが生まれないでもない。実際、クワガタムシはカッコいい。タマムシやニジゴミムシダマシが美しいようにニジイロクワガタも美しい。人生で初めてカブトムシ・クワガタショップに立ち寄った昨年は、マルスゾウカブトの存在感に圧倒された(もはや「甲虫」ではなく「怪獣」である。夜中に飼育ケースが外れて部屋に出てきて、朝目覚めて床を這っていたら悲鳴を上げそうなレベルである)。それだけ多くの魅力をもつ生き物なのだから仕方がないのかもしれない。そう思わせてくれる本である。
子供にはカッコいいカブトムシやクワガタがたくさん載っている図鑑を勧めたい。しかし大人や背伸びをした少年たちが求めるのはこういう熱き甲虫ノンフィクションに違いない。大人になってもそのカッコよさに痺れているあなたにこそ、本書を手に取ってもらいたい。

 

ところで子供向けにならこちら。

山口進著『カブトムシ 山に帰る』
昆虫写真家が書いたリアル課題図書。カブトムシとそれらの環境の変化を自説を交えて紹介していく。「人間が自然に手を加えなくなったからカブトムシが小型化している」という逆説的な指摘には大人でも唸らされるはず。

*1:厳密にはそれらの歴史が彼らの人生と不可分なもののために、結果的に浮き彫りになっているだけとも言える。日本のクワガタ史のエポックメイキングな出来事を前に、クワバカたちはどう思い、どう行動したかが本書の肝である。

*2:後悔していないことも、であるが。

読書記録『夜凪さんのよなよな餃子』①

 

「餃子とビールがあれば、明日もまた頑張れる」(帯文より)

会社員の西真白は断れない性格でいつもいつも残業ばかりである。ある週末、彼女は仕事帰りに小さな餃子屋を見つけた。思い切って入店した古民家風の店内には他に客はなし。しかし若き店主・夜凪(よなぎ)は、無愛想ながら客のリクエストや心情を汲み取って最高の餃子を提供するスペシャリストだった。西は夜凪の腕前に魅了され、仕事帰りに足繁く彼女の店に通うようになるのだった。

 

芳文社の無料ウェブ漫画サイト・コミックトレイルにて連載中(なお2021年10月掲載の第8話以降半年ほど更新がされていない)の本作から1〜7話を単行本化。一時期ブームになったグルメ漫画の系列に並ぶ作品だが、扱うのは超王道の「餃子」。ただし凄腕の監修者の協力もあり、作中で扱われるその調理バリエーションの数々には驚くばかりである。
超美麗絵師と評される作者の書く餃子は書き込みが細かく目を引きつけられる。客の心情も加味しているのか料理が皿ごとキラキラ輝いているが、そのコントラストが夜の居酒屋らしさを演出して雰囲気を伝えてくれる。暗い店内で美味しい料理が出てくると(お酒の酔いも手伝っているのだろうが)皿やグラスのなかが輝いて見えるものである。もちろん美味しくあって初めて、だが。
客が少ない(特に女性)という設定もあり、現時点で登場人物は一部の常連がほとんど。第7話から餃子フェスの話が進んでいること、夜凪の大学時代の関係者が登場していることを除けば特に大きなストーリー性はない。しかし餃子の絵面を一度でも見てしまうともう胃袋を掴まれたも同然である。次の餃子を見たくてページを捲り捲り、気づけば食後すぐなのに腹が鳴り始める。こうなっては「そうだ、今晩は餃子にしよう」とならないはずがない。
一部餃子レシピも公開されているが、決してお手軽路線ではなくちょっと手が出ないレベルだったりする。しかし西が自宅で餃子を作る話もあったり、調理面でも学ぶところもちらほらである。
ネオンの輝く夜の街、開放感(解放感?)の象徴・生ビール、肉汁が食欲をそそる圧倒的存在感・餃子。これが揃えば文句なしだろう。新型コロナウイルス流行でなかなかお酒を飲みに行けないが、居酒屋での幸福感を思い出させてくれる幸せなひとときを味わわせてくれる。

※マンガのPVを発見。


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さて余談。
きのこの山派vsたけのこの里派の対立はよく知られているが、ビールのつまみ餃子派vs唐揚げ派も熾烈である。個人的にはどちらもOKなのだが、わずかに餃子リードだろうか。作中でもそんなシーンがあるが、餃子は御飯と食べてもうまい。田舎暮らしだと車の運転の都合なかなかビール&餃子コンビにありつけないというのもあるが。

麦酒男タカバシ氏も餃子派らしい。

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そう、餃子は栄養バランスにも優れるのである。

 

初めてひとり暮らしをしたとき、近所に餃子の王将を見つけて入ったのを思い出す。不思議なもので、あのとき食べた白飯と餃子が今までで一番美味しく感じた気がする。他にもたくさん美味しい餃子を食べてきたはずなのに、不思議である。新しい生活、新しい仕事。山積みのストレスを癒やしてくれたのがあのときの餃子だったのだろうか。そう考えると、西の気持ちもよくわかるのである。

 

最後に全然関係ないけど私の好きなPANの「餃子食べチャイナ」を。この中毒性、うまい餃子の如し。


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読書記録『公共図書館を育てる』

 

21世紀に入り、日本のそこここで新時代を思わせる運営・施設を伴った図書館が誕生し始めた。しかし長く続く経済成長の停滞、公共財政の逼迫により全国的に図書館予算は減少している。特に2012年を境にして日本の図書館サービスは大きく落ち込みを始めた。また急成長するデジタル技術への対応、新型コロナウィルス流行による対人サービスの在り方の変化など、図書館界を取り巻く問題は山積している。このような情勢の中で公共図書館はどうあるべきなのか。「未来の図書館研究所」所長の著者が綴った「これからの図書館」についての論考集。

まえがき
第1章「未来の図書館のエコシステム」
第2章「これからの公共図書館を考えるために」
第3章「日本の公共図書館をどう育てるか――システム規模を考える」
第4章「図書館とコミュニティ――イギリス公共図書館の展開」
第5章「図書館での技術動向・予測――「ホライズン・レポート図書館版」」
第6章「未来の図書館に関する提言」
第7章「オーフス公共図書館からヘルシンキ市新中央図書館へ――公共図書館の新しい表情」
資料「図書館のインパクト評価の方法と手順 ISO 16439:2014」
あとがき
※出版社の本書のページより。

本書は著者の数年来の執筆文を集めたものである。そのため(著者も述べているが)「未来の図書館を考える」という視点は通底する一方、内容が行ったり来たりするバランスの悪さが目立つ。海外事例を紹介・訪問する記事もあれば、日本で著者らが開いたシンポジウムの登壇者たちの講演内容を記した章もある。そういう意味では「いいとこ取り」と言えないこともない。ここでは逐条的に振り返ることはしないが、個人的に特に関心をもった部分だけ紹介したいと思う。

第1章「未来の図書館のエコシステム」ではエンジニアリング・コンサルタントとして世界的に有名なアラップ社の調査レポート「未来の図書館」を材料にこれからの図書館を考えていく。このレポートで示された「未来の図書館のエコシステム」とは、2015年3月にロンドン、メルボルン、サンフランシスコ、シドニーで行われたワークショップ等を受けて描かれた図書館像である。筆者は本レポートを要約して紹介しつつ、これからの図書館の課題や問題点を炙り出している。
第2章「これからの公共図書館を考えるために」では参考になる海外の先進図書館事例が紹介される。映画も話題となった法人運営のニューヨーク公共図書館、図書館職員がいない時間も開館するデンマークのオープンライブラリーなどがそうだが、いずれも公共財政逼迫の世でも運営可能な形態、あるいはその時代に合わせて生み出された事例と言える。
第3章「日本の公共図書館をどう育てるか――システム規模を考える」では日本の公共図書館の現状を海外と比較しながら見ていく。日本の図書館利用登録率の低さとそのデータの曖昧さの指摘から入り、今後の日本の図書館の在り方を考察する。
先進国のなかで日本は長く図書館後進国と言われてきたが、いざ数字を比較されると溜め息が漏れそうである。
第5章「図書館での技術動向・予測――「ホライズン・レポート図書館版」」では図書館を魅力的にする新技術の動向を把握するために「ホライズン・レポート図書館版」を紹介している。「ホライズン・レポート」はニューメディア・コンソーシアムが2004年より教育・研究活動に影響を与える技術を紹介しているものである。この「ホライズン」の名前の意味は「今後1年以内」、「今後2年から3年のうち」といった視程(「見通し」と言ってもいいかもしれない)を設定しているところにある。このスパンにおいて科学技術の採用を加速する動き、妨げる課題などが紹介される非常に興味深いものである。

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第6章「未来の図書館に関する提言」は著者が所長を務める「未来の図書館研究所」が毎年実施しているシンポジウムにおいて、講演&ディスカッションに登壇した3人の図書館関係者の話をまとめたものである。2016年の第1回「図書館のゆくえ――今をとらえ、未来につなげる」には株式会社カーリルの吉本龍司氏、2017年の第2回「図書館とソーシャルイノベーション」には全国の図書館をコーディネートしている「図書館と地域をむすぶ協議会」チーフディレクターの太田剛氏、2018年の第3回「図書館とサステナビリティ」には岩手県紫波町のオガールで知られる岡崎正信氏がそれぞれ登壇しており、いずれの内容も非常に示唆的なものとなっている。
講演の要約を3つ含めたこともあり、本章は本書のおよそ3分の1のページを占めている。他の章と毛色が違って感じるのは実際に現代の日本で行われた先進事例の当事者たちの報告というスタイルゆえか。この3人の講演録だけで1冊作っても読みたいと思わせる本書の肝だと思われた。


第5章「図書館での技術動向・予測」、第6章「未来の図書館に関する提言」は特に読ませるものがあった。前者(第5章)はこれからの図書館を予想させるような技術レポートであるし、このレポートの存在を紹介するだけで価値があると思われた。後者は言うまでもないだろう。全国の図書館蔵書を検索できるサービス「カーリル」の代表・吉本氏の視点・構想は本職の図書館職員たちの書く(話す)それとはひと味もふた味も違っている。カーリル立ち上げの裏話も興味深いものがあった。「図書館と地域をむすぶ協議会」の太田氏の講演はまちづくりに対して大きな気付きを与えてくれる。図書館を主語にして語らず、地域を巻き込んだ図書館の在り方を模索する姿勢は多くの図書館が学ぶべきではないだろうか。少し話が逸れるが、これを読んでいて思い出したのが当時話題だった武雄市図書館への賛否の声だった。そんな図書館もありなのかと引いて見ていた私だが、ある元県知事の「そういう図書館もあってもいいが、東京に納税する大企業をわざわざ地域に招いて商売させる必要はあるのか?」という声に膝を打ったのを思い出す。地方の図書館の図書を東京の企業から取り寄せていたのではもったいない。
紫波町のオガールも図書館に限らず今後の日本を考える上で注目すべき事例だろう。その中心にいる岡崎氏の講演ということで、要約だけでなく現地で講演を拝聴したかったと思った次第である。

 

ところで青弓社も昔からよく読んでいる出版社のひとつである。青弓社の関係本と言えばやはり岡本真氏の『未来の図書館はじめませんか?』を抜きにして語れない。

岡本真著『未来の図書館、はじめませんか?』

もう出版からずいぶん経ったが、こちらも「未来の図書館像」を扱った似た趣旨の本であり、今も色褪せない内容と言えるだろう。

 

また本書にも言及のあった猪谷千香氏の『町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト』も触れておきたい。

猪谷千香『町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト』

一時期まちづくり分野で知られる木下斉さんの本に凝っていたことがあり、その時知った1冊である。岡崎氏の講演をさらに押し広げて見る内容となっており、こちらもおすすめしたい。

読書記録『人生でいちばん美味しい! リュウジ式至高のレシピ基本の料理100』

 

あんまり料理が得意じゃない人には、「あ、けっこう美味しくできた」と自信にしてもらえれば嬉しいし、料理が好きな人には、「自分史上最高の味」を更新してもらいたい。
「はじめに」より

自炊の何が最高かって、好みの味にカスタマイズできることです。どんなに腕のいいシェフでも、あなたの好みを完全に把握はできません。自分の舌に合わせられるのは自分にだけ許された特権。好きな味を生み出す方法さえわかれば、自分で作ったごはんは世界一美味しくなります。
「はじめに」より

料理レシピを読書記録と呼ぶのには些か違和感がある。しかし記録と言いつつ事実上は「本の紹介」をしているわけであり、オールジャンルを謳う以上スルーするわけにもいかなかった。というより前から「料理レシピの管理に関するエントリ」を書いてみたいと考えていて、これはその布石でもある。ただ今さら紹介する必要があるのか疑問に思うほど有名なレシピ本なのだが……。

今や日本で1、2を争う知名度料理研究家リュウジの自信作を集めたレシピ本。著者は日常的な発言・発信をTwitterで行っているが、レシピ紹介自体はYouTubeチャンネルを中心に据えている(140文字に調理工程が収まるレシピはツイートでも公開しているし、保管的にInstagramでも投稿がなされている)。ほとんど毎日のように投稿される本YouTubeチャンネル「リュウジのバズレシピ」では、特にこだわりを見せている料理レシピ名の頭に「至高の」と付与し、それらレシピ群を「至高シリーズ」と呼称する。その至高シリーズを集めたのが本書であり、著者が自信満々に「最高傑作」と呼ぶのも頷けるレシピが揃っている。

リュウジ氏の動画は大抵「料理のお兄さんリュウジで〜す!」という自己紹介から入る。初めて視聴するとあまりの早口に驚くが、これはキッチンドランカーである著者が料理よりも先に出来上がってしまっているせいである(早口になっていないときはまだ酔っていない)。キャラ付けというのもあるのだろうが、毎回調理開始前に理由をつけてハイボールを作成、一口呷ってから包丁を握るのがお決まりとなっている。わざわざ酒を飲むシーンが必要か? という意見もあるだろうが、これだけ料理YouTuberが多いなかで生き残っていくためには仕方がないところもあると思う。※なお著者本人はビジネス飲酒ではないと否定している(笑)
料理レシピは非常にお手軽に作れるものが多い。基礎を叩き込まれたという中華料理を得意とし、リュウジ家で頻繁に利用されているという調味料「味の素」を多用する*1(同社とのコラボ動画も多いが、これはリュウジ氏が以前からよく使っていたためオファーがあったらしい)。著者自身も「邪道」と呼ぶ破天荒な調理法もたびたび用いられるが、料理を得意としない人々にとっては却って歓迎されている印象がある。そのキャラクター性も含め賛否両論あるが、料理をする楽しさを教え、「調理者は完璧でなくてはならない」という障壁を破るインパクトの強さは昨今の料理研究家のなかでも1、2を争う影響力を生み出した要因と言えるだろう。
そしてもう何年も続いているYouTube大流行のこの時代に、頻繁にレシピ動画を投稿して知らないうちにレコメンドに上がってくる状況を作っているあたり、素直にビジネス手法として見事と言えるのではなかろうか。
今や人気者となり過ぎたせいか著者の周囲ではたびたび炎上起こっている。よく事情を知らないのでコメントはしないが、料理に罪がないようにレシピにも罪はない。気になるレシピを見つけたなら作ってみればいいし、美味しいと思ったならば評価すればいい。それで構わないと思う。

 

さて、実際に本書で紹介されているレシピをいくつか紹介しよう。掲載されているレシピの多くはすでに動画で紹介されており、レシピ本自体にもそれらのQRコードがついている。「じゃあレシピ本買わなくてよくね?」という人もいるかもしれないが、動画と紙のレシピでは勝手が違うし(またそれについても書きたいと思う)、完全に一緒ではないことも申し添えておきたい。


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「至高の炒飯」
料理研究家の腕前の試金石となるとされ著者も気合を入れて作った至高の炒飯。具材は豚肉、卵、長ねぎぐらいとシンプルなのがありがたい。生姜の香りをウリにした炒飯は数多いが、味付けの過程で香りが消されてしまったり、逆に気を遣い過ぎて薄味で物足りなくなってしまうこともしばしば。その点このレシピはそのバランスが絶妙である。問題は本書内でこれを越えた至高の炒飯レシピを併載していることか(笑)

 


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「至高の餃子」
牛脂や粉ゼラチンを用いる変わった餃子レシピ。溢れる肉汁と特性醤油ダレの相性には驚かされた。餃子にはいつもキャベツを使っていたが、このレシピを見てからは白菜派に変わった。餡を包む工程はどうしても手間だが、個人的には調理済みの至高シリーズのなかで一番好きである。

 


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「至高の担々麺」
きちんと作ろうとすると2度と使わなさそうな調味料をたくさん揃えなくてはいけない類の料理は多い。それをこれだけの材料で作れるのが見事である。肉味噌と練りごまの圧倒的再現率には舌を巻いた。名前を間違えやすい豆板醤・甜麺醤を両方使うので家族に買ってきてもらう場合はトラブルに注意。

 

※改めて見てみると私自身が勧めたいレシピのいくつかは至高シリーズと勘違いしていただけで別メニューだったと発覚した。結果全部中華料理となってしまった。ただの自分の好みじゃないか(笑)「やはりリュウジの真骨頂は中華だ!」と強弁を張って逃げよう。

 

なおリュウジ氏のレシピには主食や主菜を張れる料理が多く、副菜が少ない印象がある(私の料理は趣味レベルなので実際にはどの料理研究家もそんなものかもしれない)。弁当のおかずに頭を悩ませることの多い私はその点では他の料理研究家のお世話になっていることが多い。おそらくこれは料理初心者に成功体験をしてもらいたい(とりあえず一品だけでもある程度食卓が栄える)というねらいがあるためだろう。当然だが料理に「いいとこ総取り」はない。どこのスーパーにも安く売っている材料ばかりを使い、包丁すらも使わずわずか数分でお手軽に、かつプロの料理人も驚くような味と華やかな見栄えがあり、栄養士も驚嘆するような栄養バランスの料理などあり得ない。それらの要素の多くはトレードオフであり、どれを優先するかはそれぞれの研究家次第である。そのため(著者本人も認めているにもかかわらず)「栄養バランスが悪い」と批判するのは筋違いであるし、また別の料理研究家に対し「お洒落だけどダイエットの敵みたいなレシピばかり」、「視聴者(読者)はプロでもないのに無茶な技術を求め過ぎ。上から目線が過ぎる」というのも妥当性がないと言えないだろうか。別に料理レシピ界隈は弁論の世界ではないので細かい話とは思ったが、念のため。

*1:他メディアでレシピが紹介されるときは大抵「うまみ調味料」に書き換えられている。

読書記録『死の海 「中河原海岸水難事故」の真相と漂泊の亡霊たち』

 

1955年7月28日。三重県津市の穏やかな海・中河原海岸において水泳に来ていた36名もの中学生たちがまたたく間に命を奪われる痛ましい水難事故があった。当時センセーショナルに報道され、事故生存者が語ったという「ある証言」が心霊現象を想起させたこともあり、65年の歳月が過ぎた現代も日本最恐クラスの怪談としてよく知られている。しかしこれは心霊現象としての消費であり、事故の真相を追求して後世に伝えていく試みよりも遥かに影響力をもってしまっている現実がある。
実はこの事故にまつわる(公的機関所蔵の)資料は散逸してしまっている。しかし厳密には立証しようがないものの、今日ではその痛ましい事故には科学的に説明がつけられることがわかっている。だが一度水難事故が心霊現象にまつわるものだと噂になればもう止めることはできない。本書はなぜこの水難事故が起こったのか? そしてなぜ心霊現象説が生み出され、受容されるに至ったのか? 丹念な調査を積み重ね、その事故と噂の流布の背景にある事情を解き明かし真相に迫っていくものである。

 

ここで知らない人のために中河原海岸水難事故にまつわる怪談を紹介しよう。なおこれは私が知っているパターンであり、大筋こそ同じだが、インターネット全盛の現代ではさまざまなバリエーションが生み出されている。*1

1955年7月28日、三重県津市の中河原海岸では近隣中学校の生徒たちによる水泳の授業が行われていた。中河原海岸は遠浅の海であり、水泳の苦手な生徒たちでも安心して練習をすることができた。しかし生徒たちが入水してわずか数分、突然女子生徒たち(男女で泳ぐエリアが分けられていた)が溺れ始めた。わけもわからず慌てて救助に向かう教員たち。自力で逃げ出した者、なんとか助け出した者たちも多いが、最終的に36名という多くの少女たちが命を失った。なんとか生存したひとりの少女はこう語ったという。「防空頭巾をかぶった女性たちが少女たちを次々と海の底へと引きずりこんでいた」と。この証言をした生徒は他にもおり、水難事故は戦時中の亡霊たちが引き起こしたのだと語られるようになる。なお10年前の同日(1945年7月28日)、津市はアメリカによる最後の大きな空襲を受けていた。空襲の被害者の遺体は数多く、中河原海岸に埋められたという。(※引用ではなく都祁の記憶を書き記したもの)

中河原海岸。日本の怪談好き、オカルト好きの間でここまで有名な場所も少ない。中河原海岸は遠浅で、毎年県内外から多くの水泳客を集め賑わっていたという。近隣海岸も含め、この穏やかな海でこれほどの痛ましい事故が起こるなど誰が想像し得ただろうか。被害者はこの日水泳の授業で訪れていた近隣中学校の女子生徒たちである。水深はせいぜい1メートル。いくら水泳が苦手な子だったとしてもそんなに溺れてしまうものだろうか。
本書は事故からおよそ65年の時を経て刊行された中河原海岸水難事故を扱った初めての単著である。事故の経緯、原因をさまざまな観点から探っており、当時支配的だった「教職員の指導懈怠が原因」という風潮の背景、そして事件関係者たちがそれをどう感じていたかが明かされる。「事故の原因とその影響」を「教員」と「娘を失った遺族」というごく限られた関係者に限局して捉えるのではなく、まちという大きな枠組みから俯瞰して見ていくところに本書の醍醐味がある。
一見起こりそうにない事故はものの数分で多くの命を奪い去った。突然娘の命を奪われた遺族、そして義憤に駆られた者たちの怒りの矛先はどこへ向かうのか。当時スケープゴートとして槍玉にあげられた教職員たちを生徒たちは、そしてその他の関係者たちはどう見ていたのか。かつての裁判資料や新聞記事を何度読み返しても出てこない知られざるまちの人々の本音がここで語られている。
著者の事故を見つめる眼差しも冷静至極だ。メディアに記された自称専門家の嘘、そして心霊現象説を語る人々の論拠(?)とされる空襲被害者埋葬の日時と場所、そして被害人数の符合も緻密な調査を元に切り捨てている。
そしてなぜ怪談にかたちを変えて今もこれらの事故が語り続けられるのか? 多くの命が失われる悲劇が起こるたび、人々の心に巻き起こる感情を整理する装置として怪談は広がっていく。怪談が生まれた津のまちについて、著者は自身の体験を交えて語り、本書を締めくくっている。

 

大きな災害はメディアの毎年の企画によって追憶の機会を与えられるものである。「○○大震災から□□年……」といった具合だろうか。しかしこれだけ悲しい事故があったにも関わらず、中河原海岸水難事故が掘り起こされるのはいつだって怪談イベントや動画のなかでだけだ。実際私は怪談が好きで、この事故も趣味の延長で知ることになった。まだ「奇跡体験! アンビリバボー」がガチガチの心霊番組だったころ、本事故も特集されている。もちろん水難事故の悲惨さを後世に伝えるという趣旨ではない。その再現映像があまりに怖かったため、ますますこの怪談が世間に広がっていったように思う。
私は怪談好きではあるが、この中河原海岸水難事故について口にすることにはどうしても抵抗があった。事故の背景でどれだけの人が悲しみ苦しんだか、それを思うと心の底から楽しめないのだ。何でもかんでも不謹慎の一言で排斥するつもりはないが、本書を読むことはこの筆舌に尽くしがたい感情の淵源を垣間見る体験だったように思う。
本書の存在を知ってすぐ読みたいと思ったのだが、なんと版元はすでに倒産。入手までに結構な時間がかかってしまった。しかし読み終えた今、この選択に間違いはなかったと思わせてくれた。
多くの人の命が失われた悲劇。まちの分断すらも生み出した出来事を何の記録も残さずに風化させるのは惜しいものだ。図書館の郷土資料コーナーに置かれることで本書はずっとその記憶を引き継いでいくことだろう。本書の価値はそれだけで充分過ぎるほどだ。

※版元は既になくなってしまった。今後入手困難になる可能性があるため、図書館でなく手元に置いておきたいという人はお早めに。

*1:これらの水難事故は雑誌や新聞で取り扱われるたび伝言ゲームのように詳細を変えながら広がっていった。著者はこれらの怪談の大筋が固まったのが1986年刊行の松谷みよ子『現代民話考5』に収録された怪談(正しくは体験聞き取り)と見ている。ネットで検索すればひとつひとつの怪談にわずかな違いが見受けられるが、大筋で言えばどれも松谷氏の記したものと同じである。